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自性院の由来・伝承

自性院寺伝の詳細

自性院寺伝の詳細

当山は度重なる災厄を蒙り、その度に堂宇は灰燼に帰し什宝・古記録等は焼失しました。長い歴史の中で無住の時も度々あったため、縁故のある御寺院住職方に兼務を頂いたり地域の方々に支えて頂いたりと、衰退と復興を繰り返してきた寺です。そのため、詳しい創建の年代や開基などは定かではありません。

寺伝によれば、平安の頃、東国巡錫中の善住上人が峻山険しき丘陵地帯相武の境界、当地に至ってふと地蔵菩薩の霊感に渇仰し、小庵を結んで地蔵菩薩の尊像を刻み安置し奉ったそうです。当山はその善住上人によって開山されたと伝えられています。

当初は善住山地蔵堂と言いましたが、平安時代末期に京都御室の仁和寺から院号「自性院」を賜り、久保山自性院地蔵寺と称するようになりました。

興国2年(1342年)6月、兵火の厄に罹り堂宇伽藍一宇も残らず全焼しましたが、当時の住職善怡法印が恵心僧都の御作地蔵菩薩を迎え、堂宇伽藍再興をされたそうです。よって、この善怡法印を当山中興開山第1世と称しています(後の住職歴代は、この善怡法印を1世として数えているようです)。

永正7年(1510年)7月、再度の兵火に罹災し、悉く堂宇が全焼しました。その後、何時の頃か再興を見るに至ると伝えられております(現存する本尊地蔵菩薩は横浜市の調査で江戸時代作ということが分かっていますので、度々の災禍の後で新たに迎えられた地蔵菩薩様と思われます)。

寛永10年(1633年)2月10日、関東寺院本寺末決定の際には堀の内石川寶生寺末と記録されていたそうです。

当院記録(寛永年間からの過去帳写し)には「當院中興第十五世権少僧都長信法印(寛永12年5月1日寂)」の記述があり、史料においてはこの長信法印を当山の「中興」としています。当山ではこの寛永年間からの過去帳写しが現存しておりますが、過去帳原本が残るのは明和9年(1772年)からのものとなります。

安永年間、中興第25世宥禅法印の代、庫裡・客殿・門を造営するに至りますが、その後、文化9年(1813年)12月24日、重ね重ねの災厄にかかり、一宇も残さず古記録に至るまで悉く全焼してしまいます。

第26世金海法印は、境内の一部に仮境内・仮庫裡を造営しましたが、寺賎乏しく中々本堂再興に至りませんでした。その後は無住の時が続き、寺は荒廃していきました(当山には天保13年の正月に第27世住職堯禅僧正が持ってきた涅槃図が現存しておりますが、この什物は災禍を免れたようです)。

その後、安政2年(1855年)、青木明神遷宮の大導師を勤めた第28世満賢房霊明法印(磯子真照寺戒光僧正の弟子)が三間堂を建立しました(当山は、明治維新後の神仏分離令が行き届くまでは青木明神社の別当でした)。

明治維新後、第30世自覺房明道僧正(神奈川龍華寺の弟子)の時、鎌倉の日金山松源寺(源頼朝開基)が廃寺となり、そのお寺にあった半鐘(木村將監藤原安成作 正徳元年銘)を明治3年に譲り受けました。この半鐘は現存しており、毎年除夜の鐘法要の際には一般の方々にも撞いて頂けます。

当山は長く石川村寶生寺末の寺でしたが、明治7年には増徳院末となりました。その後、大正15年6月29日付で高野山直末の寺院になりました。

昭和2年、第34世髙橋英禅僧正が参道の石段を整備し、寺容が整いました。

昭和36年、第37世山本聖善僧正が本堂(現本堂)・庫裡を再建しました。同55年に本堂を増築、同59年には開山の善住上人ゆかりの権現堂を再建しました。権現堂の本尊には、当山檀信徒家の大黒柱であった欅を用い、聖善僧正の畏友、眞光寺第39世住職政岡智秀大僧正が精魂込め彫り上げた不動明王像を安置しました。

平成3年、第38世山本邦法僧正の時、客殿庫裡を新築造営しました。同7年には石段及び境内地を整え、寺容は一新されました。

平成29年、第39世山本高寛(現住)の時、老朽化してきた本堂に耐震改築を行い、本堂屋根の葺き直しを行う等の各種修繕を施し、現在に至ります。

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以上は、第37世聖善僧正記述の当山登記文書由緒沿革をベースとし、「新編武蔵風土記稿」、「横浜市史稿 佛寺編」、「港南の歴史」、神奈川宗務支所発行の「寺院名鑑」等の記述他、寺に残る資料を参考にし、住職自身の調査も含め、文章の構成・加筆修正を行いました。


現住職が勉強・調査中のため、新しいことが分かり次第随時加筆修正を加えていきます。何か詳しいことをご存知の方がいらっしゃいましたら、お問合せページ等からご助言頂きますようお願い申し上げます。